このページは1997年5月以降NHK交響楽団が共演した指揮者、独奏者のプロフィール(N響の機関誌「フィルハーモニー」の解説を抜粋したものです)と私の感想をまとめたページです。(全部の公演を網羅するものではありません。)
1998年、1999年、2000年の「指揮者、ソリストご紹介」へもどうぞ!
1997年
指揮者:シャルル・デュトワ、イルジー・コウト、ジュン・メルクレ、ミヒャエル・ボーダー、エフゲニー・スヴェトラーノフ、ハインツ・ワルベルク、ドミートリ・キタエンコ、ヴォルフガング・サヴァリッシュ
ソリスト:フランソワーズ・ポレ(ソプラノ)、ヴォルフガング・ノイマン(テノール)、ハンス・ゾーティン(バス)、イヴァン・モラヴェツ(ピアノ)、竹澤恭子(ヴァイオリン)、イレーナ・グラフェナウアー(フルート)、御喜美江(アコーディオン)、曽我栄子(ソプラノ)、白井光子(メゾ・ソプラノ)、宮本文明(オーボエ)、神谷郁代(ピアノ)、諏訪内晶子(ヴァイオリン)、ドミトリー・シトコヴェツキー(ヴァイオリン)、アンドレ・ワッツ(ピアノ)、インゲボルグ・バルダスティ(ピアノ)、トーマス・ハンプソン(バリトン)、ジュリー・カウフマン(ソプラノ)、マーク・ペスカノフ(ヴァイオリン)、ジャン・イヴ・ティボーデ(ピアノ)、ハンナ・チャン(チェロ)、ピンカス・ズーカーマン(ヴァイオリン&ヴィオラ)、佐藤しのぶ(ソプラノ)、寺谷千枝子(アルト)、ハンス・ペーター・プロホヴィッツ(テノール)、ベングト・ルントグレン(バリトン)
シャルル・デュトワ 写真:坂田栄一郎氏
1936年スイスのローザンヌに生まれ、早くからヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ、打楽器などさまざまな楽器を学んだ後、ローザンヌ音楽院で音楽理論を勉強し、更にジュネーヴ音楽院にも学ぶ一方で、アンセルメの指揮するスイス・ロマンド管弦楽団のリハーサルを見学するなど、幅広く研鑽を積む。
その後シエナの音楽アカデミアとヴェネツィアのベネデット・マルチェロ音楽院で指揮法を学び、59年にタングルウッドのセミナーにも参加。64年にベルン交響楽団の音楽監督に就任、その後、チューリッヒのトーンハレ管弦楽団、メキシコ国立交響楽団、エーテボリ交響楽団の首席指揮者を歴任。
77年にモントリオール交響楽団の音楽監督に就任し、それまでマイナーな存在であった同楽団を短期間のうちにトップ・レベルに引き上げてしまった。91年からフランス国立管弦楽団の音楽監督にも就任。そして今回N響常任指揮者に就任。
N響にデビューしたときの印象が強くて、最近の印象は余り強くはありません。これはこちらが変わったせいかも知れませんから何とも言えません。ウィーンでのレコーディングなどを見ても手際のよい指揮者であることは確かですし、聴衆への受けは大変良いと思います。ベートーベンやハイドンなどをやってもらいたいものです。
1937年に生まれる。プラハの音楽院とアカデミーでオルガンと指揮を学ぶ。指揮法は名指揮者カレル・アンチェルに師事。オペラ指揮者として活動を始め、65年ブザンソン指揮コンクールでの優勝を初めとして、いくつかのコンクールで優秀な成績をおさめる。73年プラハの国民劇場の指揮者のポストを得たコウトは、76年からライン・ドイツ・オペラの指揮者を経て、85年から91年までザールラント管弦楽団首席指揮者も兼任。
86年コウトは、急病の指揮者の代役としてベルリン・ドイツ・オペラにデビュー、これが成功して90年同オペラの首席指揮者に就任。93年からライプチヒ歌劇場の音楽総監督、96年からザンクト・ガレン交響楽団(スイス)の首席指揮者も兼任。幅広いレパートリーを誇る。
私にはよく分からない人。「わが祖国」は?。ワグナーは◎。モーツァルトの交響曲第39番は○、だけどオベロンは?。その人となりと同じで、穏やかな曲はそののんびりした感じが良いのですが、ドラマチックな曲になると考えすぎの感がある。
新しい世代の指揮者として、国際的に注目を集めている。1994年よりマンハイム・オペラハウスの音楽監督を務める傍ら、ベルリン、ミュンヘン、ウィーン等ヨーロッパの主要歌劇場に多く招かれ、聴衆のみならずヴァイクルなどの一流歌手からも高い評価を得ている。今回が待望の日本デビューとなる。59年ミュンヘンの音楽一家に生まれる。ハノーファー音楽大学卒業後、チェリビダッケ、バーンスタイン、小澤征爾らに学ぶ。オペラを中心に活躍、イタリアオペラからモーツァルト、ワーグナー、R.シュトラウス、さらにシュニトケやデニソフ等現代の作品まで60に及ぶ幅広いレパートリーを持つ。93年ウィーン国立歌劇場に「トスカ」でデビュー、以来「ホフマン物語」、「魔笛」「カルディアック」など数演目を指揮。今年3月ロイヤル・オペラハウスに「神々の黄昏」を指揮してデビュー、99年にはメトロポリタン歌劇場でアメリカ・デビューが予定されている。
1989-93年バーゼル劇場の音楽監督権首席指揮者として15の演目を新演出で手掛け、成功をおさめ、若い世代を代表する指揮者として注目を集める。ハンブルグ音楽院でクリストフ・フォン・ドホナーニらに師事、その後イタリアで研鑽を積み、リッカルド・ムーティ、ズービン・メータのアシスタントを務める。フランクフルト、ケルン、ハンブルグ、シュトゥットガルト、ベルリン、フェニーチェ座などの一流歌劇場で指揮。現代音楽の解釈にも定評がある。オーケストラの指揮者としても活躍、フランクフルト放送響、バスティーユ歌劇場管、フランス国立放送管などに客演。
指揮者としてはまだ未知数。良いところもたくさんあるが、スコアに手を入れたりするところもある。
ロシアのみならず、世界の音楽界を代表する巨匠の一人である。1928年モスクワに生まれ、モスクワ音楽院で、指揮をアレクサンドル・ガウクに、作曲をシャポーリンに師事。在学中の53年に、モスクワ放送交響楽団で自作の交響詩を指揮してデビュー。54年から10年間ボリショイ歌劇場の首席指揮者を務め、65年からソヴィエト国立交響楽団(現ロシア国立交響楽団)の音楽監督・首席指揮者に就任。
現在、オランダのハーグ・レジデンティ管弦楽団の音楽監督を兼任。N響とは、93年1月、95年の「第9」に続いて3回目の共演となる。
個人的には大好きなタイプの指揮者です。今回は前回より、ゆっくりな所のテンポはかなり遅くなった。ff(フォルティッシモ)のスケールの大きさは比類ないものがあり、強力な指導力統率力を発揮する。オーケストラにゆったりとした、情景を想像させる音色で弾かせる。いつまでもお元気で!
1923年ドイツで生まれる。ドルトムント音楽院などでヴァイオリン、トランペット、指揮を学ぶ。アウグスブルク市立劇場、ベルリン市立歌劇場の音楽総監督を歴任、61年ヘッセン州立劇場の音楽総監督、ウィーン国立歌劇場の常任客演指揮者に就任する。62年ミュンヘン・オペラ祭りでR・シュトラウスの「無口な女」の指揮が絶賛を浴びる。オーケストラの指揮者としても活躍。60年より3年連続でザルツブルグ音楽祭に出演、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルを指揮して大成功をおさめる。75年よりエッセン市の歌劇場および管弦楽団の音楽総監督を努め、90年には在職15年を迎え同団の名誉指揮者となる。91年より同市のアールト劇場の音楽監督も努める。
N響にも何回も登場していらっしゃいます。シュトラウス名曲集などを指揮すると、素晴らしいものがある。今回の来日ではウィーンの作曲家だけを得意とするのではないというところを「悲愴」の演奏で見せてくれた。
1940年サンクト・ペテルブルグ生まれ。モスクワ音楽院などで学び、ウィーン音楽院にてスワロフスキーに師事。69年第1回カラヤン国際音楽コンクールに入賞。スタニスラフスキー&ネミロヴィッチ=ダンチェンコ劇場の首席指揮者、芸術アドバイザーに就任、モスクワやベルリンでオペラ指揮者として高い評価を受ける。またオーケストラの指揮者としても活躍、76年よりモスクワ・フィルの首席指揮者を14年務める。90/91シーズンよりフランクフルト放送響、ベルン響の首席指揮者としても活躍する一方、ベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送響、チェコ・フィル、フィラデルフィア管、シカゴ響など世界各地のオーケストラに客演、ザルツブルグ、ウィーン、ベルリンなどの音楽祭に出演。現在モスクワ音楽院教授。
のびのびと弾かせてくれる人で、ちょっと変わったことをすることもありますが、無理をしないで音を出させるタイプです。ショスタコーヴィッチの5番、展覧会の絵など面白かったです。
ドイツ音楽の伝統を継承する世界屈指の指揮者。1947年アウグスブルグ市立歌劇場でデビュー。53年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を史上最年少で指揮し大成功をおさめる。アーヘン、ヴィスバーデン、ケルンの歌劇場で音楽監督を務める。特にバイエルン国立歌劇場では71年から92年まで音楽監督をへて総監督をつとめ、同歌劇場をドイツ最高水準に育て上げた。ハンブルグ、ウィーン交響楽団、スイス・ロマンド等のオーケストラをへて、93年よりフィラデルフィア管弦楽団音楽監督を務めている。また長年にわたりNHK交響楽団と共演、94年N響桂冠名誉指揮者の称号を贈られた。
一昨年暮れのN響定期初登場の際ベルリオーズの「夏の夜」の名唱で日本でも名が知られるようになった。そもそも彼女が国際的に名が知られるようになったのは、R・シュトラウスの「ばらの騎士」の侯爵夫人役を、リューベック歌劇場で見事に歌ったことがきっかけだった。その後、世界の主要な歌劇場はもちろん、ブーレーズ、ジュリーニ、プレートル、デュトワ、小沢征爾などとの共演を通して国際的な地位を確立した。
ワグナーのように負担の重い曲でも余裕で歌える。がなり立てるようなところは一つもない。
1945年オーストリアのケルンテン州に生まれる。エッセンで学んだ後デュイスブルグの音楽院で勉強し、ピーレフェルトとアウグスブルグの歌劇場で歌手としての経験を積む。80年から88年まではマンハイム国立歌劇場に所属。その後各地の歌劇場で活躍、特に95年バイロイト音楽祭でタンホイザーを演じて高く評価される。
ワグナーの歌劇の主役の英雄役を歌う「ヘルデンテノール」らしい明瞭でハリのある声の持ち主。
1939年ドルトムントに生まれる。ドルトムント音楽院に学んだ後、62年にエッセン歌劇場と契約し、64年からハンブルグ国立歌劇場のメンバーとして実力を認められる。70年以降はフリーで世界各国の歌劇場で歌い、72年以降は毎年のようにバイロイト音楽祭に出場。共演した指揮者は、クレンペラー、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、ショルティ、ジュリーニなどの巨匠が含まれる。
素晴らしい声量の持ち主。無理していないで歌える点は素晴らしい。
1930年にプラハに生まれる。プラハ音楽院に学び、57年と翌年にイタリアのアレッツォで巨匠ミケランジェリのマスター・クラスに学んだ後、59年にロンドンでデビュー、国際的ピアニストとして認められる。64年ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団との共演でアメリカデビュー、以降ヨーロッパとアメリカで活躍。67年からプラハ芸術アカデミーで教える一方、各地でマスタークラスを開き教育者としても活躍。
姿からは豪快な弾き方をするかと思ったら、非常に良くコントロールされたピアノで、絶対に鍵盤をたたく音を出さない。日本人にはいないタイプのピアニスト。私はこういうタイプの演奏家は大好きです。
愛知県に生まれる。3歳よりヴァイオリンを始める。10歳から才能教育海外派遣団の一員として海外に演奏旅行するなど、早くからその実力を明らかにする。桐朋女子高等学校音楽科在学中の1982年に日本音楽コンクール第1位、同時にレウカディア賞受賞。85年にジュリアード音楽院に入学、ドロシー・ディレイ、川崎雅夫に師事。86年にインディアナポリス国際コンクールで見事優勝、以後世界各地で活躍。
ジュリアードの人らしい弾き方で、私はうまいと思うのですが、ヨーロッパの批評ではよく弾くが何かが不足するという言い方をされています。
旧ユーゴスラヴィア(現スロヴェニアのリュブリャーナ)出身の女流フルート奏者。
カール・ハインツ・ツェラーやオーレル・ニコレに師事。1974年のベオグラード、78年のジュネーヴ、79年のミュンヘンなど代表的な国際コンクールで輝かしい成績を収める。また77年から10年間、クーベリックやコリン・デーヴィスが音楽監督を務めるバイエルン放送交響楽団に在籍して首席フルート奏者として活躍。
N響には94年に初登場。いベールの協奏曲を吹いてその鮮やかな技巧と音色を披露。今回のモーツァルト第1番も期待されている。
今回は降り番ですのでコメントできません。
東京生まれ。4歳の時からアコーディオンに親しみ、16歳でトロシンゲン市立音楽院に留学。1973,74年クリンゲンタール国際アコーディオン・コンクールで2年続けて優勝。アヌシー国際アコーディオン・コンテストの二重奏部門でも第1位に輝く。その後ハノーヴァー国立音大に学び、卒業後デュイスブルグのフォルクヴァング音大の講師となり、現在同大教授を務める。
国立音大卒業後、同専攻科を修了。1965年に「魔笛」のパミーナ役でデビュー、以後モーツァルトとワーグナーを中心にドイツオペラのソプラノ主役として欠かせない歌手として活躍、プリマドンナの地位を築くとともに、宗教曲や歌曲の分野でも優れた業績を残しています。
ドイツで研鑽を積み、1973年のヴォルフ・コンクールや翌年のシューマンコンクールなどいくつかの国際コンクールの優勝を通して、リート歌手の名声を確立した。
夫君のハルトムート・ヘル氏とデュオを組み、リートを歌う一方宗教曲などでオーケストラとの共演も多い。オペラにも出演しており、特に87年フランクフルトの「コシ・ファン・テュッティ」のデスビーナ役は絶賛を博した。
92年よりカールスルーエ音大教授となりデュオのリート科を設立、94年からはザルツブルグのモーツァルテウムの教授も務める。
ソリスト、オーケストラのオーボエ奏者として国際的に活躍するほか、ジャズやガムラン、フラメンコ等ジャンルを越えたアーティストと共演、自らが公演のプロデュースも行うなど、多彩な活動を展開する。東京生まれ。桐朋学園高校卒業後、北西ドイツ音楽院に留学、首席で卒業。ヴィンシャーマンに師事。1975年ヘッセン市立響、77年フランクフルト放送響の首席奏者に就任。91年同放送響のマーラーの交響曲全曲演奏会ツアー、93年ケルン室内管のツアーで来日、いずれも大成功をおさめる。ソリストとしてインバル、ノイマン、リリングなどの指揮者と共演、フランクフルト室内ゾリステンのツアーにも同行した。75年芸術優秀賞受賞。CDも多数リリース。
桐朋学園高校卒業後ドイツに留学、エッセン音楽院で学ぶ。井口愛子、クラウス・ヘルヴィッヒ、ステファン・アスケナーゼらに師事。1972年エリザベート国際音楽コンクールに入賞。モーツァルト、ベートーヴェンからサティまで幅広いレパートリーでリサイタル、オーケストラとの共演を行う。室内楽の分野でも活躍、国内のソリストやクリーブランド弦楽四重奏団、ウィーンフィルのメンバーと共演する。またRCAから20枚以上のCDをリリースしている。
よく弾かれる「皇帝」とは一味違う、室内楽のような演奏。なかなか良い味がある演奏。
1990年最年少でチャイコフスキー国際コンクール審査員満場一致の優勝。
87年日本音楽コンクール優勝、88年パガニーニ国際コンクール並びに89年エリーザベト王妃国際音楽コンクール第2位。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース終了後、演奏活動を一時中断、ジュリアード音楽院、コロンビア大学に学び、同大学修士課程を修了。またベルリン国立音楽大学でも研鑽を積む。
95年演奏活動を再開。
若々しく前向きのテンポですべてを弾ききっていく感じの人。短期間に2度N響の演奏会に登場するのも珍しいです。期待の若手といったところでしょう。
1954年現アゼルバイジャン共和国のバクーに生まれる。モスクワ音楽院に学び、さらにジュリアード音楽院でイヴァン・ガラミアンに師事。1979年第1回クライスラー国際ヴァイオリンコンクールで優勝。以来確実な技巧と知性を兼ね備えた演奏で、高い評価を得ている。また1996/97年のシーズンからアルスター交響楽団の首席指揮者、シアトル国際音楽祭の芸術監督を務めるなど指揮者としてのキャリアも確立している。
個性派のヴァイオリニスト。音色、弾き方など非常にうまいですが、人によって好き嫌いははっきり別れるでしょう。
弱冠16歳の時に、バーンスタインからグレン・グールドの代役に指名され、ニューヨーク・フィル定期に出演、一大センセーショッンを巻き起こした。それから30年を経た現在もワッツはスケール豊かなダイナミックな演奏で、世界中でもっとも人気の高いピアニストとして国際的な活躍を続けている。テレビ出演なども積極的に行うほか、近年では北米で行うすべてのコンサートについて出演料の一部を寄付するなど、精力的な社会支援を展開している。
ウィーンに生まれ、ウィーン国立音楽大学、ウィーン音楽院に学ぶ。85年シチリア島マルサラの国際ピアノコンクール、88年スタインウェイ・ピアノ・コンクールで第1位を獲得。91年には「さすらい人幻想曲」の見事な演奏によって国際シューベルト協会から「フランツ・シューベルト大賞」が贈られるなど、早くからオーストリアを代表するピアニストとして豊かな才能を発揮、ウィーン弦楽四重奏団との共演など、室内楽にも意欲的に取り組んでいる。
難しそうな曲を見事に弾いていました。オーケストラがテンポの変化についていけず(聴いていて細部がよく聞こえなかった)、おいてきぼりを食らった感じです。
人気、実力ともに当代随一のバリトン、トーマス・ハンプソンは1956年アメリカに生まれた。84年ロンドンでリサイタル・デビュー。2年後の86年にはニューヨークのメトロポリタン・オペラに「フィガロの結婚」の伯爵役でデビュー。以来毎シーズン出演を果たす。またウィーン、ミュンヘン、ミラノ・スカラ座等国際的な舞台で活躍。
声量もあるし、声の質も素晴らしいです。ドイツ・レクイエムは暇そうな感じでした。
アメリカに生まれる。アイオワ大学で声楽とピアノを学び、20才で渡欧。チューリッヒの国際オペラ・スタジオやハンブルグ音楽大学で研鑽を積む。バイエルン州立オペラを始め、ミラノ・スカラ座やパリ、ベルリンなど、ヨーロッパの主要な歌劇場で活躍。91年にはバイエルン州の宮廷歌手に任命される。
声量はあまりないが、きれいな声の持ち主。ドイツ・レクイエムではトーマス・ハンプソンさんとは正反対の感じでした。
ロシアのオデッサ生れ、7歳からヴァイオリンを始める。1973年、アメリカに移住し、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに師事。77年ロストロポーヴィッチ指揮/ナショナル響との共演でデビュー。その後は欧米の著名オーケストラとの共演やアイザック・スターンやヨー・ヨー・マとの室内楽での共演など幅広い活躍を見せている。昨年6月の定期ではヒンデミットのヴァイオリン協奏曲で協演。
繊細な音楽性と希有のテクニックで聴衆を魅了するティボーデが1980年12月定期初登場以来、待望の再共演を果たす。
ティボーデのデュトワとの共演は多く、昨年フランス国立管との来日を初め、モントリオール響とのラヴェル、リストの協奏曲の録音等がある。
ジャンルを越えた幅広いレパートリーを持ち、録音はラヴェルやラフマニノフの協奏曲、ブラームス、シューマンのピアノ曲、ジャズまで幅広い。
現在14才にして既に国際的な評価を得ているハンナ・チャンがいよいよ日本デビー。
1994年第5回ロストロポーヴィッチ国際チェロ・コンクールでロストロポーヴィッチ以下全員一致で第1位、および現代音楽賞受賞。翌95年シノーポリ指揮/ドレスデン国立管弦楽団との共演で母国韓国にデビュー。デュトワとの共演も多く、96年10月にはデュトワ指揮/モントリオール響でカーネギーホールにデビューしている。
1948年、イスラエルに生まれる。62年、スターンやカザルスの勧めでアメリカに渡り、ジュリアード音楽院に学ぶ。以来優れた音楽性と技術を併せ持つトップ・アーティストとして現在に至るまで活躍を続けている。また、ヴァイオリン、ヴィオラ奏者、指揮者としての活動のほか、近年では教育者、現代音楽の推進者としても活躍している。
N響とは73年4月バレンボイム指揮の定期公演でメンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲で初共演。昨年のサントリー10周年に続き今回が3度目の来日。
1988年ブラティスラヴァ国際フェスティバル80周年記念の初日に「トスカ」のタイトル・ロールでヨーロッパデビューを飾る。以後世界の一流オーケストラや歌劇場、音楽祭に招かれ、数々の共演を果たし、国際的なコンサートやオペラのステージで活躍。93年12月には「カルメン」のミカエラ役で、ウィーン国立歌劇場デビューを果たす。94年5月にはパリで、デュトワ/フランス国立管の第9ソリストを務める。
1980年オランダ・セルトーゲンボッシュ国際声楽コンクール第2位。83年よりボン歌劇場専属歌手として活躍。90年よりフリーとしてハンブルク国立歌劇場を初め数多くのヨーロッパの歌劇場に客演。昨年12月サントリー定期においてデュトワ・N響とファリャの「三角帽子」で共演絶賛を博した。
1987年5月、ショルティ指揮/シカゴ響のバッハ「マタイ受難曲」の福音史家としてアメリカデビュー。同年P.シュライアーに抜擢され、ハンブルク国立歌劇場でモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオ役を務める。
スウェーデン宮廷歌手の称号を持つ国際的バリトン。ストックホルム王立歌劇場と契約し、「ドン・ジョヴァンニ」でデビュー。69年にはベルリン・ドイツ・オペラの常任メンバーとなる。95年2月のN響定期公演、シュタイン指揮「さまよえるオランダ人」では急病でキャンセルした共演者に代わり、ダーラント役で見事な歌唱を披露。